Interview
アニメ先進国といえる日本のアニメーション業界で常に新しいものを生み出し、進化を続ける青木純さん。
アニメーションの世界で活動をはじめ7年。
青木さんの映像製作に対する想いや、現在まで歩んできた道について伺いました。
30秒のアニメーションを作ったことがこの世界へ進むきっかけになった
生まれて初めてつくった30秒のアニメーション作品。映像を見終わった観客の拍手と賞賛の声に、今までに味わったことのない感動を経験したと語る青木純さんは現在、東京で活躍する新進気鋭の映像クリエイターだ。
「東京藝術大学時代、課題でつくったアニメーション作品を学園祭で上演したんです。藝大の学生だけではなく、一般の方も観に来られていたんですが、お客さんから受けた自分の作品に対するリアクションの大きさに感動して、一生この世界でやっていきたい、やめられないと思いました」。淡々と、そして丁寧にアニメーションの世界へ進むきっかけとなった出来事を話す青木さんが、東京藝術大学を志すようになったのは高校3年生の夏だった。
「幼い頃から工作や絵を描くことが大好きでした。高3の進路決定の際、絵を専門的に学べる、美術大学の存在を知ったんです。勉強がそんなに好きではありませんでしたし(笑)、自分が自信の持てる分野に進みたいと思い、美術系大学への進学を決めました」。
数多くある美術大学の中から、東京藝術大学を選んだ理由はどんなことだったのだろうか。
「昔から東京へ出たいという想いはありました。せっかく目指すなら日本で一番レベルの高い大学で学びたいと、東京藝術大学を選んだんです」。東京藝術大学への進学を決意した青木さんは、絵の技術を磨くために美術系の予備校に通い始めた。その頃通っていた那覇市にある予備校から自宅までは、高速バスで片道約1時間。学校の授業を終え、予備校に通うという毎日を送った。「残念ながら、現役では合格しなかったんですが、その後上京し、東京の美術系予備校に通いました。東京の予備校は沖縄の予備校とは比べものにならないほど周囲のレベルが高く、衝撃を受けましたね。いろんな人と出会い、刺激を受けながら学べたことは、いい経験でした。」2浪の末、東京藝術大学へ入学した青木さんは、大学時代もさまざまな経験をすることとなった。
プロとして仕事を請けはじめたのは大学2年生のころ
大学のデザイン科へ進学し、プロダクトデザインやグラフィックデザインなど、いろいろなジャンルのデザインを学んだという青木さんが、課題をきっかけにアニメーション制作をはじめ、プロとして仕事をスタートさせたのはなんと大学2年生の頃だった。「ひとつめのアニメーションを作ったあと、大学の仲間5人でTACOROOM(タコルーム)というチームを結成して、映像の創作活動をはじめました。校内の食堂や掲示板に張っておいたそのサークルのビラがたまたま大学に来ていたフジテレビのプロデューサーさんの目に留まって、「SMAP×SMAP」の番組内で放送するブリッジ(コマーシャルの前後やコーナー開始に使われる数秒の映像や音楽)を作る仕事の依頼が来たんです。
夜中3時ごろに電話がかかってきて、最初は信じられませんでしたが、どうやら本物のプロデューサーさんで(笑)。
せっかく巡ってきたチャンスだから、僕たちが持っている技術のなかで精一杯やってみようと請けたのが、はじめての仕事でした。無事に完成した作品は気に入ってもらえて、今もそのプロデューサーさんとはお付き合いがあるんですよ。
自分の絵の技術を磨いたり、いろんな人に出会って刺激を受けたり、アニメーションの技術を身につけたり。日々の生活の中で、僕なりに準備がきちんとできていたから、巡ってきたチャンスを掴むことができたんだと思います」。
と、当時を振り返る。
「フジテレビの仕事以降、インターネットのユーチューブに自分の作品を載せるようになりました。インターネットで僕の作品を見た方から仕事の依頼が来たりと、そこから仕事の幅も広がっていきました。大学時代から自然と仕事がスタートしましたが、あの頃と今、仕事に対するスタンスは変わっていませんね」
「自分がやる意味があるのか、楽しいか」が仕事を選ぶ大きなポイント
美術に自分の目標を見出した高校時代、アニメーションの世界の面白さに出会った大学時代、そして現在まで、はっきりとした目標を持って進んできたという印象の青木さんだが、本人はすべて“なりゆき”だったと、意外な答えを返してくれた。
「今まで、自分がこうなりたいと思って進んできたというよりは自分のアクションに対して、褒められる方向に進んで来て、今があるといった感じなんです。
僕は、大学の進路を決めるまで、本当に何も考えずにボーっと生きていたと思います。
高校時代、宜野湾で待ち合わせしたのに、反対方向のバスに乗ってしまって、読谷で間違いに気づいたくらい方向音痴だったし(笑)。そんな僕でしたが、進路を考えていたときは、自分が今まで何で褒められてきたかを考えました。
自分を知ること、適性を見極めることは何かをはじめるときに、本当に大切です。
僕の場合、沖縄から出て自分の環境を変えたことが、今の職業に就くきっかけになったと思います」。
自分自身の成長のために、東京を活動の拠点に選び、現在は仕事のスケジュール管理はもちろん、マネージメントまでを1人でこなす青木さん。テレビの映像制作やディレクション業務など、多いときには同時に10本もの案件が進行するという。
多忙な毎日を送り、活動の幅が広がる中でも大切にしていることがある。「仕事を請けるときは、自分がやる意味があるか、新しいチャレンジか、面白いかを自問自答します。仕事に対して、楽しいと感じられなければ、いい作品も作れないと思うんです。仕事が辛くなったら、人生も辛くなってしまう。だから、きちんと仕事を選ぶ。結果的にそれが、僕自身にも仕事を依頼していただいたクライアントに対しても誠意のある選択になるんだと思います。
アニメーション作りは、一つひとつの工程が本当に地味で地道な作業なんですが、自分で考えたキャラクターが少しずつ出来上がって、物語のなかで動き出したとき、キャラクターに命が吹き込まれたときが一番嬉しい瞬間なんです。作品に対して良い評価がいただけたり、そんなご褒美が僕の原動力かもしれません」
いつか、沖縄を舞台にした長編アニメーションをつくりたい
テレビ番組のオープニング映像やキャラクターデザイン、CDジャケット制作など、仕事内容も多岐に渡る青木さんに、今後の夢や目標について聞いてみた。
「常に、自分が好きだと思える仕事を続けていければと思います。
今まではショートフィルムが中心でしたが、いつかは沖縄を舞台にした長編のアニメーションを作ってみたいと思っています。作るなら自分の企画でオリジナル、監督として携わりたいですね。実は、沖縄のプロデューサーの方とも長編アニメーションの企画についてお話をさせていただいていて、時が来たら現実になっていくんだと思っています。そのときのためにも、今自分ができる準備はきちんと進めて行きたいですね」。
クライアントが求める仕事と自分に出来ることを冷静に理解し、チャレンジすることを忘れない姿勢が印象的だった青木さん。毎日の積み重ねや人との出会い、選択が夢に地続きに繋がっていると改めて感じさせてくれたインタビューだった。
日本のアニメーションの世界のみならず、海外での活動も期待される青木さんに、今後も注目していきたい。
青木さんから沖縄の高校生へメッセージ
「自分のやりたいことがみつけられないなら、まずは、環境を変えてみること。
県外へ出て経験を重ねることは、必ず自分のプラスになります。だから勇気を出して、一歩踏み出してほしいと思いますね。行動を起こすことで、自分のやりたいことや好きなことが見えてくることもある。
沖縄の未来のために、行動する勇気を持っていただきたいと思います。がんばれウチナーンチュ!」
Profile
青木 純/映像クリエイター
株式会社スペースネコカンパニー代表
1981年生まれ。沖縄県立球陽高校出身。東京藝術大学デザイン科卒。
学生時代から数多くの賞を受賞し、2007年同校卒業と同時に、東京・渋谷区に株式会社スペースネコカンパニーを設立。
NHKやフジテレビなどで放送されるアニメーション制作を担当するほか、“誰でも楽しめるエンターテイメント”を作り続けている。
information
「走れ!」
大学の課題授業で作ったはじめての映像作品。一人の男が人生を30秒で駆け抜ける!
30秒とは思えないほど見ごたえのある作品
http://www.youtube.com/watch?v=wA9OJVfbVvw
「コタツネコ」
青木さんの出世作ともいえる「コタツネコ」。
コタツから決して動こうとしない猫が主人公の軽快でスピード感がある作品。続編も必見!
http://www.youtube.com/watch?v=8_6NNE939h4
「スペースネコシアター」
ネコが大好きだという青木さんが作った、ネコ好きによるネコ好きにのためのオムニバスアニメ
http://www.youtube.com/watch?v=ZT5AKavLQXM
GO TO SCHOOL 2010.10