「お笑いタレント」パッション屋良

Interview

情熱的体操のお兄さんとしてお茶の間で大人気のパッション屋良さん。
しかしここまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。
お笑いを志したきっかけから今日に至るまでの経緯や、今後パッション屋良さんが目指す沖縄でのお笑いの形について、熱い想いを語ってもらいました。

人気者の小学生から笑いが取れる生徒会長に

「面白いヤツは人生得をするな」と気付いたのが小学校4年生の時。
最初は「人気者になるために人を笑わせていた」というパッション屋良さんであったが、いつしか笑ってもらえることが快感となっていった。小・中学生時代は周りの友達も、「誰が一番強いか」というよりも「誰が一番笑いをとったか」という話で盛り上がることが多かったという。
中学を卒業して名護高校に入学した屋良さん。当時の名護高校には「おもしろい人が生徒会長になる」という校風があり、選挙活動はもちろん式典や全校集会など生徒を笑わせてなんぼという生徒会長だった。屋良さんが高校2年生の時、友達がある相談を持ちかけてくる。「自分は生徒会の仕事がしたいが、おもしろいことはできないので、選挙に立候補しても生徒会長にはなれないかもしれない。屋良くんが生徒会長になって、自分を副会長にしてほしい。」というものであった。「たくさんの人の前でネタができる」と思った屋良さんはこの申し入れを快諾、もちろん生徒会長にも当選した。その後、生徒の前で話をする時には「次はどうやって笑わせよう」と考えるようになり、これが人前で芸を披露するようになった最初のできごとである。しかし、この当時の将来の夢は体育教師で、まさか芸人になるとは夢にも思っていなかった。

東京で血が騒いだお笑い芸人への道

高校生の時は陸上部で汗を流し、円盤投げでは沖縄県のランキング1位という記録も持つ。
そのこともあって、大学卒業後は地元に戻り、体育教師をしながら国体を目指そうと考えていた。
高校を卒業して新聞奨学生(新聞配達をする事を条件に住居、学費、食事などを新聞社が肩代わりする制度)をしながら浪人し、翌年見事に国士舘大学体育学部体育学科に入学する。しかし、そこは花の都「東京」である。当時の沖縄とは違い、テレビでもお笑い番組の放送は多く、あちこちで舞台もやっているので、「お笑い」というものを身近に感じることができる。
そうなると屋良さんの中に眠っていた「お笑いをやりたい」という願望がむくむくと頭をもたげ、いつしか体育教師になるという夢より大きなものになっていった。
「ずいぶん悩みましたね。大学を辞めようかとも思ったほどです。でも何ごとも中途半端なのは良くないので、大学はきちっと卒業して、教員免許もちゃんと取りました。」
大学4年生の時に、教育実習で母校に戻った際も、「今の自分のギャグが高校生にうけるか試したかった」という。
実際に教育実習中は授業に笑いの要素を取り入れ、生徒からは「おもしろい実習生がいる」と評判になった。
それが「まだまだいける」という自信にもつながり、実習後に東京に戻った屋良さんは「お笑いをやろう」と決意、活動をはじめる。

「絶対テレビに出てやる!」ポジティブシンキングでいることがくじけないコツ

芸能活動をはじめたと言っても、すぐにブレイクしたというわけではなく、今日に至るまでには長く辛い日々もあった。
最初は、たまたま東京にいた幼なじみと「サミット75」というコンビを結成。今の芸風とは全く違うコントや漫才なども行っていた。4年ほどコンビで活動していたが、仕事は思うようにとれず、オーディション会場を廻る日々が続く。今でこそ子どもたちにも大人気で、知名度はあるが、お笑いで稼げるようになるまでは、オーディションやネタ作りをしながらバイトをこなし、ひたすら努力する毎日が続いていた。実際に屋良さんの周りにもお笑いから別の仕事に転身していった芸人が何百組もいるという。それでもあきらめなかったのは「いつか売れるだろう」と信じていたから。
そして、精神的にも金銭的にも支えてくれた彼女(今の奥さん)がいたから。やがてコンビを解消し、2004年から情熱的体操のお兄さん「パッション屋良」としてピンで活動をはじめる。最初は「ん~!」と言いながら胸を叩くという芸がなかなか受け入れてもらえず、苦労したという。
そんな屋良さんがブレイクするきっかけとなったのは「笑いの金メダル(ABC朝日放送)」や「お笑い登龍門(CX)」に出場したすぐあとのこと。「胸を叩くおもしろいやつがいる」と話題になり、いろいろな番組に出演するようになった。
「大変だったし、苦労もした。でもお笑いのためなら、バイトも仕事も苦じゃなかった。」
体育会系の根性と持ち前のポジティブシンキングで売れない時代を乗り切り、現在ではお笑い番組以外にもドラマやPV(Yum!Yum!ORANGEのSingle「Day by Day」)にも出演するなど活躍の場を広げている。

めざすは地産地笑! 沖縄を「お笑い」でもっと元気に

テレビに出たいという目標は達成した、芸人でご飯も食べられるようになった。でも「そこがゴールじゃない」と屋良さんは言う。
「どんな仕事でもそうだとは思いますが、常に次の課題がある感じ。あぁこれでいいやと思った時点で終わってしまう。毎日なにかしらの努力は必要な職業なのかなとは思います。」今までがむしゃらにやってきて、「パッション屋良」という芸人の認知度もあがり、「じゃあ次はなにができるだろうか」と考えた時に「沖縄のことがあまりやれてないな」と思った。「外から沖縄を見てわかったことも多いし、それを反映させたい。東京だとハードルが高くて実現不可能なことも沖縄ならやれるかもしれない。」
そして今年、地元名護にオフィスパッションを設立し、平成22年度ベンチャー育成連携事業にも認定された。
事業の内容としては「お笑いと地域資源をコラボレーションし、沖縄の魅力を発信する」というもので、実際にイベントや番組をプロデュース、これまで沖縄ではなかなか見ることのできなかったお笑いライブなどを開催している。「音楽のフェスは結構盛んだけど、お笑いはまだまだこれから。いつか、うたの日(Bigen主催のライブイベント)みたいにお笑いの日とかやれたらいいなぁと思います。そして全国から人が集まったらステキだなって。やってる自分たちが楽しくてみんなにも喜んでもらえたら嬉しいですね。」

勇退は負けじゃない。それまでは精一杯頑張れ!

屋良さんに県外で頑張る、そしてこれから県外に出て頑張る若者に向けてメッセージを聞いた。
「夢半ばで、仕方なく地元に戻らないといけなくなったり、夢を諦めて違う道を進むことを選択しなければならないこともあると思う。でも、精一杯頑張ってのことなら、それは負けではなくむしろ次へのステップ。怠けた結果でというのは駄目だけど、努力した結果ならそれは英断であり、決して間違いではないと思う。結果はあとからついてくるもの。だから今は自分を信じて頑張って欲しい。」

Profile

パッション屋良(お笑いタレント)
1976年7月生まれ、沖縄県名護市出身。マセキ芸能社所属。
体育の教員になるために国士舘大学に入学するが、芸人への夢の方が大きくなり、お笑いの世界へ。
情熱的体操のお兄さんという芸風で一躍人気者となる。現在では沖縄にも事務所を構え、イベントや番組の企画など幅広い分野で活躍している。

GO TO SCHOOL 2010.10

関連記事

  1. 「千葉ジェッツストレングストレーナー」多田 我樹丸

  2. 女子ボクシング選手・岸本 有彩

  3. お笑い芸人 じゅん選手

    お笑い芸人 じゅん選手(大城 純)

  4. 「アフリカ起業家」金城 拓真

    「アフリカ起業家」金城 拓真

  5. アトロン クリエイティブ エンターテインメント

    ATORON Creative Entertainment

  6. 山内 盛久(琉球ゴールデンキングス)

    山内 盛久(琉球ゴールデンキングス)