Interview
「ガキヤイサム」を開花させた
コラージュを取り入れたイラスト
子供の頃からエイリアンやホラー好きで『アキラ』の斬新さに衝撃と感動
「狂気」と「滑稽」をイラストで表現。サブカルチャーの担い手に
ちょっとシュールでミステリアスな世界感満載で、一度見たら印象に残り続けるイラストを描く、イラストレーター我喜屋位瑳務さん。現在では雑誌や広告、他業種とのコラボ企画にも引っ張りだこの我喜屋さんだが、ここまでの道のりは山あり谷あり、闇ありの連続だったという。プロとして世間に認められるようになるまでの苦労や、我喜屋さんの独特な世界感の原点について話を聞いた。
模写にはまった少年時代。今の作風の根底はここか!?
子ども時代は「当時住んでいた家は周りがウージ畑と木とお墓に囲まれていて、毎日探検ごっこで野性的に遊んでいる子供でした。一方では消極的でおとなしい子供でもありました。妄想ばかりしていたので記憶がちぐはぐになってるところも沢山あると思います」と話す我喜屋さん。外で駆け回る一方、絵を描くのも大好きで、当時流行っていたガンダムや巨人ゴーグに影響され、ロボットの絵ばかり描いていたという。また、好奇心も旺盛で、怖いと思いながらも『ゲゲゲの鬼太郎』の原作本を何度も繰り返し見ては、その描写に刺激を受け「もしかしたら、僕が描く絵の怖い要素はそこから芽生えたのかもしれませんね」と当時を振り返りながら話してくれた。
小学校に上がると、今度はプラモデルの模写に夢中になった。「プラモデル部の上級生がH.R.ギーガーのエイリアンのプラモを持ってきていてその形態に心を奪われ、それからホラー映画が好きになりました。内容よりクリーチャーのデザインが好きだったんです」この時期に見てきたものは、今の作風にかなり反映されているようである。そして、中学生になると今度は『アキラ(大友克洋/作)』に身も心もどっぷりハマることになる。「描き込みの凄まじさとか、メカのデザインはもちろんのこと、全ての発想が新しくて、見るだけでは物足りなくなって模写していました。当時はああいう表現のマンガがほとんどなかったので、斬新だったんだと思います」寝ても覚めても『アキラ』一色だったと話す我喜屋さん。ここまでの話を聞いていても、少々思い込みが激しく、一風変わった少年だったことが伺える。そして、ここまでの体験が今の作風の一番根底にあると感じさせた。
イラストに目覚めたフリーター時代
子どもの頃から絵を描くのは大好きだったという我喜屋さんではあるが、イラストレーターを目指そうと思ったのは意外に遅い。高校卒業後、やりたいことが決まっていなかった我喜屋さんは、とりあえずバイトをしながら、なんとなく日々を過ごしていた。そんな生活が3年続いたあと、美容師を目指して美容室で働いたこともあったが、お客さんとのコミュニケーションがつらくなり1年で退職、もとの生活に戻ってしまう。それでも心の中にある「絵を描くことが好き」という思いは消えず、今度は美大に行くための資金を稼ぐためにコンビニでバイトをしていた我喜屋さん、雑誌コーナーにあった月刊の成人誌の表紙に釘付けになった。それはイラストレーターの寺田克也さんが描いた「肉体美」のイラストだった。「衝撃的でした。一枚絵の力というか、寺田さんは資料や写真を見ながら描いていないのに、本当の体よりカッコ良く完成しているところです。僕の中でグッときたんですよね。それで、この技術を自分のものにしたい、イラストレーターになりたい」って思ったんです。
何のアテもないのに上京!?苦しかった売れない時代
思い立ったら吉日という言葉通り、早速上京を決心した当時25歳の我喜屋さん。当然アテやツテがあるわけでもない。不安はなかったのだろうか。「不安はあり過ぎでした!でも思った時にやらないと、迷っている時間は戻ってこないし、人生1度きりですからね」明るく話してはくれるが、当時の苦労は今思い出すだけでもつらくなるそうだ。「住むところとバイトを1週間くらいで決めて、慣れない環境でゼロからの生活が始まったので、大変でしたね。一刻も早く帰りたかったですよ。ご飯とメンチカツと納豆だけの暮らしをしばらくやっていて、その時期の写真を見たら半分死人でした。もうあの頃には戻りたくありません。ある意味、初心は忘れないほうがいいですね」それでもイラストレーターへの夢を諦めなかったのはなぜだろうか。「接客業や建築現場など、ほかの仕事も経験しましたが、僕にはこの仕事しかないと思っていました。だから諦めないでここまで頑張って来れたと思います。あとは一緒に上京して、見守ってくれていた嫁のおかげ」奥様との感動秘話は「恥ずかしいから」と話してもらうことはできなかったが、上京してからイラストレーターとして食べていけるようになるまでの8年間、支えあって頑張ってきた姿が伺えて、聞いているこちらも心温まる瞬間だった。
奇跡の出逢いと「ガキヤイサム」の確立
我喜屋さんに転機が訪れたのは、イラストレーター湯村輝彦さんとの出逢いだった。我喜屋さんのバイト先のお客さんだった湯村さんに同僚が「僕たちイラストを描いているので見てもらえませんか」と声を掛けてくれたのがきっかけで、我喜屋さんのイラストを見てもらう機会が訪れる。「その時はデジタルで描いたカッコつけたオシャレなイラストだったんですけど、「デジタルだと暖かみが無いし面白くない」と一刀両断。代わりに「コラージュをやってみたら?」って言われてデジタルをやめて全てアナログにしたんです」その途端、誠文堂新光社『イラストノートNO.3』第2回ノート展 伊藤桂司賞を受賞したり、ポツポツとではあるが仕事の依頼が来るようになったという。「徐々にですが何をやっていけばいいのか見えてきました。湯村さんに会えていなかったら、と考えるとゾッとします。おかげさまで今ステキな人たちと一緒に仕事ができています」
その後も作品を出版社に持ち込んでは断られる日々が続いたが、決して諦めなかった我喜屋さん。プロとして初めて認められた仕事は2006年のミュージックマガジン『フリッパーズギター特集』だった。ダメもとの持ち込みなので、終わった後に「今日もダメか」と思っていたが、次の日に突然依頼が来た。「嬉しかったですね。続けてきてよかったと、今でもそう思っています」と、感慨深い様子。そして、ミュージックマガジンを見た他の出版社から装丁の仕事が来たり、少しずつ仕事が繋がっていくようになる。また、2009年にはガーディアンガーデン 第1回「1_WALL」展(旧:ひとつぼ展)というコンペでグランプリを受賞、その後は順調にイラストレーターとしてキャリアを積んでいる。現在では、雑誌や広告、出版物の装丁などを中心に、音楽業界やファッションにも活躍の場を広げている。「頼まれるだけのイラストレーターではなくて、頼まれる側と一緒に何か面白いものを作っていきたいです。隙を狙って、やってみたい事を提案していければ良いかたちができると思います。自分を大切にしながら柔軟に変化していければいいなと思っています。」そう話す我喜屋さん、イラスト以外の分野にも進出する予定はあるのだろうか。「面白いものが作れるならば、イラストではなくても良いと思います。例えばアートディレクターみたいなこととか。イラストは辞めませんけどね」
慣れれば居心地のいい東京。多くの刺激を吸収して感性を磨く
我喜屋さんにとって東京という街はどんなところだろうか。「人や暮らしについては沖縄も東京もそんなに違いはないと思っています。単純に沖縄の10倍くらいの人が密集して生活しているので、その分いい人も悪い人も同じ比率でいるだろうし、生活環境も自分に合った場所が見つけれるようになったので暮らしやすいですよ。沖縄ももちろん良いところ。仕事で行ったり来たりできたら理想です。それに、東京は刺激が多いので自分の感覚を磨くことができます。ここでしか見ることができないものや、ここでしかできない事も沢山あります。悪い事は疎遠になってしまった友達が多くいることですね。」東京で暮らして12年、今は自分の居場所も見付けたので居心地がいいと話す我喜屋さん。最近は自転車での移動にハマっていて、打ち合わせにはできる限り自転車を使うようにしている。「全然運動していなかったんですが、ほぼデスクワークなので不健康なんですよ。このままでは早死にするので運動も兼ねて自転車移動に力を入れています。いいですよ、無になれるので。あと、電車が嫌いだからというのもあります」と終始マイペースにゆっくりゆっくり話してくれた。
上京当初は反対や心配もしていたという両親も、近年の我喜屋さんの活躍にはとてもよろこんでくれているとのこと。「月に何回か連絡を取るようにしています。お互い元気にしているっていう報告は大事ですよね。安心するし。それに、ありがたいことに僕が仕事した雑誌は毎回買ってくれているんです。仕事したけど沖縄ではなかなか売っていない雑誌もあるのでそこは残念です」遠くはなれていても絆で繋がっいる親子の姿が思い浮かぶハートフルなエピソードである。
好きなことを続けるのが大切。チャンスとタイミングを逃すな!
最後に、沖縄の高校生に向けて、県外で頑張る先輩としてアドバイスを聞いた。「僕のような進学も就職も成功していない人間が良いアドバイスができるかわかりませんが、何でもいいので、自分のためになることでやりたいことや好きな事があれば、それを続ける事が大事だと思います。沖縄にいてもそうですが、県外のほうがチャンスが溢れているので、どこかで必ず良いタイミングが回ってくると信じています。運がある人とない人の違いは、そういうことだと思います。あと、できれば人として接客業は経験しておいたほうがいいと思います」
夢実現インタビュー 我喜屋位瑳務
Profile
我喜屋 位瑳務 Isamu Gakiya
イラストレーター
沖縄県沖縄市出身、東京都在住。
コラージュを取り入れた独特な世界感をもつイラストで、装画、雑誌、アパレル、広告、展示などの幅広い分野で活躍している。
2009年にガーディアンガーデン 第1回「1_WALL」展(旧:ひとつぼ展)にてグランプリを受賞。
2010年にはサマーソニックのライブペイント「SONICART」にも参加し、今最も注目されているイラストレーターのひとりである。
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information
【 受賞歴 】
2008年 誠文堂新光社『イラストノートNO.3』第2回ノート展 伊藤桂司賞
2009年 ガーディアンガーデン 第1回「1_WALL」展(旧:ひとつぼ展) グランプリ受賞
【 活動履歴 】
2009年 ZINE’S MATE, TOKYO ART BOOK FAIR 出展
2009年 個展cafe manduka
2010年 新日本プロレス 永田裕志Tシャツ
2010年 マガジンハウス BRUTUS 30周年特集号「サブカルチャー」
2010年 JRA「ウマフェス」キャラクターヴィジュアル
2010年 SUMMER SONIC ライブペイント「SONICART」参加
2010年 個展『少年・秘密手帖』大阪Digmeout Art&Diner
2011年 文藝春秋 Number 774?781 Number on Number
2011年 浅草キッドの玉ちゃんと語る 俺たちのプロレス変態座談会
2012年 LEO今井 Tシャツ
2012年 NHK教育 『大!天才てれびくん』5秒クラッチ
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